Home

La rivista dei guzzisti

2022bicilindrica01.jpg
 

イタリアで季刊発行されている「La Rivista dei Guzzisti」(=Guzzist Magazine)の80号、2022年4月号の「人物紹介」に載せていただきました。MOTO・GUZZIワールドクラブに入会されている方の元には届いていることと思います。
 
本文にもありますがたまたまSNSを通じて知り合って、その後2016年の95周年イベントでは実際に会うことができたロベルト・ポレッリはモータージャーナリストでした。それで彼が毎号受け持つページを私に割いてくれました。ひとつは二輪車も四輪車も、たくさんのメーカーが世界に輸出してた日本でGUZZIに乗ってるのが不思議でしょうがないのでしょう。そしてもうひとつは私がちょいちょい(と言っても5年おき笑)マンデッロに出現しているので目についたのでしょうか。
 
以下はその記事の和訳になります。もとは私がインタビューされたものでその原稿が手元にありますが、彼がどのように書いたかを知りたいのでそちらに忠実に、いえ完璧な和訳という自信はありませんが訳してみました。ご覧になってみてください。


 
2022bicilindrica02.jpg
 
++++++++++++++++++++++++++++
 

<日出る国の鷲たち>
ロベルト・ポレッリ
日本から、GUZZIへの強い情熱
 
我々とは全く異なる遠くの人々とじかにコンタクトがとれるソーシャルネットワークのチカラに感謝している。何年か前、とある編集の仕事のために白のカリフォルニアの写真を探してたくさんのグループに相談していたのだが、それに応えてすぐさま写真を送ってくれたのは、ある親切な日本人だった。その後ネットでのやり取りを始めて、マンデッロ・デル・ラーリオのモト[1]への情熱を分かち合い、集会の際にはエマヌエーレ・ヴィットーリオ・パローディ通りの赤い鉄柵[2]の前で私たちは実際に会った。ラーリオの地に立つ、東京のナンバープレートをつけた彼のGUZZIは、私の長いライダー人生のうちでも心に迫る姿だった。
 
友、Massi、1964年生まれ、実際にはタカヒロ・マスモトという。彼のあだ名はイタリアで起こった愉快なエピソードに由来がある。
 
2001年、彼がサン・ベネデット・デル・トロントまでカリフォルニアで走ったとき、料金所に着いたら通行券が失くなっていた。料金所の係員は料金不足分を支払うための書類を作らねばならず名を尋ね、彼は日本でいつもするように苗字だけ「マスモト」と伝えた。ブラヴォーなその料金係はそれを聞いて「マッシ・モト」と書いた徴収票を手渡したのだった。その後、彼の友人たちは(GUZZISTA[3]もそれ以外も)彼のことをMassiと呼ぶようになった。
 
この友である日本人は東京のモトグッチ・リパラーレという名の、完全にGUZZI専門の工場でメカニックとして働いている。
 
「僕は19歳だった1983年にモトに乗り始めた。その少しあとにモーターサイクリストという日本の雑誌の輸入車の記事を読み、V35イモラの存在を知った。このときから文字通りGUZZIに憑りつかれることになった。とりわけ僕の免許で乗れる数少ないイタリアのモトであったことも大きい。
 
1987年にはついに鷲の実物を見に行った。とてもドキドキしたのを覚えている。こうして僕の最初のGUZZI、V35イモラ2と出会ったのだ。たった1度、ほんの数キロの試乗をしてすぐに購入を決めた。イモラ2ののちカリフォルニア2を所有し、2015年まではルマン1000も所有していたが、ルマン1000がGUZZIの中の最高のモデルだ確信していたにもかかわらず、V65のレストアに夢中になってルマン1000を手放した。」

現在、我々の日本の友は15万km走ったカリフォルニアIIも所有している。道具として、信頼できるパートナーとして、そしてとても興味深いことに彼はワィンディングロードでもカリフォルニアを楽しんでいる。
 


 
2022bicilindrica03.jpg
 

「僕のカリフォルニアは実はポリス仕様で、青灯とサイレンまで備えていた。」
 
ーーMassiは説明するーー
 
「ある日のこと、横田のアメリカ合衆国空軍基地の近くを走っていたときモトに乗った2人のアメリカ兵が前にいた。彼らは警官がいると思ったのだろう。法定速度を忠実に守っていた。おかげで僕らは超ゆっくりと走ることになってしまった。あの日ののち、すぐにあの装置たちを取り除いたのさ。」
 
Massiはこんな楽しい話をする。しかしついで真剣な話を始める。彼の国を襲った悲しい部分に話は移ってゆく。
 
「僕のカリフォルニアは2011年の地震と津波のあとも良きパートナーだった。カリフォルニアで荒廃した地域を訪れ、復興を助けるボランティア作業についた。2012年の春には週に1度だけの休日を使って福島への旅を始めた。思うに僕の活動にとって重要だったことは・・・」
 
ーータカヒロは続けるーー
 
「毎回600kmの道のりを通って、それでも6時間シャベルで瓦礫をすくうことができた。僕のGUZZIのおかげだ。」
 
彼は何年かのちに新しいプロジェクトを始める。
ーー彼はこう話したーー
 
「2014年にスクラップになった古いV65フロリダを買って、これをベースにして1台のスクランブラーを作った。現在ブームでよく見るエレガントなスクランブラーではなく、有能で実用的な、オンロードモデルでありながらサイレンサーを高くすることでオフロードも走ることができるモデル[4]をと企んだ。」
 
Massiに言わせるとGUZZIはライダーと親密な関係にあるという。一般のライダーの運転能力とGUZZIのパワーの優れたバランスがあり、しかもその2気筒エンジンは人間の心臓の鼓動と等しいリズムで回っている[5]と主張しているのだ。
 
「GUZZIに乗ると言うことは日本を小さくするということ、なぜなら運転をまったく止めたくなくなるからだ。」
 
と結論している。
 
 
 
【日本のクラブ】
 
モトグッチ・オーナーズ・クラブ・オブ・ジャパンはMOTO・GUZZIの公認の輸入業者の諸井敬商事のもとで1985年8月1日に生まれた。最初の会員は70人だった。日本でGUZZISTAであることはけっこうな変わり者だといえる。というのも多くのライダーはイタリアの鷲はまったくもって異質な魂を持っているとみなしているからだ。
 
「僕の考えでは」
 
ーーMassiは我々に説くーー
 
「互いに似たようなものを作っている日本の4つのメーカーのモデルは、ヨーロッパのモトと比べると強い個性に乏しい。思うに、だからこそ日本のライダーのある程度の割合の者が外国製のモトに魅せられるのは自然なことなのだ。
かつて日本の当局は400cc以上のモトを運転することを熱望する人々にとても厳格な運転技術試験を課していた。そのことが多くの人に小排気量のモトを選ばせる動機となった。こういった背景から日本においてもっとも売れたMOTO・GUZZIは恐らくV35イモラだろう。
あの頃、青や白のモデルもも並べられていたとしても、皆が欲しがったのは赤いGUZZIだった。かつての日本のマニアたちはイタリアのモトは赤に限ると素朴に思い込んでいたのだ。
 
その後当局は日本のライダーがより簡単に上級のカテゴリーの免許を取得できるように運転テストのレベルを下げた[6]。チェンタウロとグリーゾは最初のうちは日本で人気が無かった。しかしそれらの生産が終わった後だいぶ経ってから人気が出てきた。このことは日本人が新しい設計に反応するのが遅いことを示している。
近年はV11シリーズとV7シリーズが日本のGUZZISTA人口を増やすのに貢献した。」
 


 
2022bicilindrica04.jpg
 
 

【私のマンデッロ、出会い】
 
「あの時、工場の前で君に会うことができて本当に嬉しかった。」
 
ーーMassiは私に語るーー
 
「君以外にもたくさんのGUZZISTIに出会った。中でもMOTO・GUZZI・WORLD・CLUBの会長マリオ・アローシオに会えた。
マンデッロでは夢の5日間を過ごした。ギザッロの聖母礼拝堂を訪ねたり、レッコからヴァルサッシーナへとツーリングしたり、その際にエィジノ・ラーリオまで足を延ばすことを勧められた。その地域の眺望はともかく素晴らしく、本当に行ってよかった。
 
日曜の昼はGUZZISTIが集う場所、リストランテ・アル・ヴェルデに向かったが[7]、登る道を間違えた。僕は道を戻り、とある家の前でおしゃべりをしていた人々に道を尋ねた。僕が困っているのを見て1人の男性がスクーターに乗り込み親切にもリストランテまで連れて行ってくれたのだ。彼はリストランテの前から小さな谷の向こうの一点を指さしてあそこが彼の家だと教えてくれた。そして以前はMOTO・GUZZIで働いていたのだと付け足した。日曜の昼なのに彼の親切はありがたかった。
 
ミーテイングでは、クラブ・ヴェッキエ・ルオーテ・デル・ラーリオのカルロ・マリアも彼らのイベントへ招待して参加させてくれたのでとてもよく覚えている。イタリアに行ったのを機に、アマトリーチェの震災のあとだったので、我々のクラブの会員が哀悼のシンボルとして作ったオリガミ[8]を持って行った。現地の市長にオリガミを手渡してくれたテルニ在住のジュゼッピーノ・プロイエッティに感謝します。本当に敬服すべき行いです。」

【東洋から見たイタリア】
 
「国の違い、社会の違いがあるが、根本的には人間の違いだろうと言いたい。僕にとってイタリア人はアイデンティティーを強く持っているように見える。大きな信念を持っている。例えば君たちは地域ごとの伝統的な料理を保護して、誇りを持ち、愛している。」
 
ーーMassiが話すーー
 
「日本にも伝統的な料理はあるが、我々はそれに手を加えるのも好きだ。我々には創作という名のレシピの変更をよくやる悪いクセがある。
30年以上前、東京にとあるレストラン・チェーンがあった。僕はまだ学生で、ある日生まれて初めてスパゲッティ・カルボナーラを注文した。だけどこれにはたくさんのほうれん草やキノコやタマネギも使われていたのだった[9]。同じことがワインにも起きる。あるイタリアワインの本を持っているのだけど、その本からそれぞれのワインに使うぶどうの種類が定義され、その比率や製造の方法が厳格な規格によっていることを知ってとても驚いた。日本にはサケの藏がたくさんあるが、みなそれぞれの地域に供給するために風土に調和するようにそれぞれの判断で作っている。」

これはときたまシェフの帽子をかぶるためにヘルメットを脱ぐMassi[10]の説明です。
 


 
2022bicilindrica05.jpg
 

【夢の旅】
 
「とても実現できないようなことはあまり夢見ないようにしている。ただ以前一度、世界一周ツーリングをやった知り合い[11]がイタリアへのツーリングを勧めてくれたことがあった。もし安心して一定のスピードで旅ができるユーラシア・ハイウェイのようなルートが現存してたらウラジオストックからイタリアまで走りたいな。」
 
親愛なるMassi、それは夢に終わるよう運命づけられたよ。なぜなら我々の大陸に戦争が起きてしまい、そこの住民の人生と夢をめちゃくちゃにしてしまっているから[12]。終
 
<注釈> 
1:モト = モーターサイクル、オートバイ
2:エマヌエーレ・ヴィットーリオ・パローデイ通りの赤い鉄柵 = MOTOGUZZIの工場の旧正門
3:GUZZISTA = GUZZIに乗るライダー(GUZZISTIはその複数形)
4:モデル = オフロードモデル出現前の60年代に作られていたスクランブラー
5:心臓の鼓動と等しいリズム = 以下参照「GUZZI・TEMPO」
6:運転テストのレベルを下げ = 「免許を取りやすくなった」がこのように解釈されました
7: 2022bicilindrica06.jpg
  文中マンデッロ周辺の位置関係です
  アル・ヴェルデは山の中腹にあります
8:オリガミ = 千羽鶴のこと
9:カルボナーラ = 本来野菜や生クリームは使わない。本来は卵黄、チーズ、塩漬豚肉、白ワイン、塩胡椒のみです
10:実はこの部分正確に訳せてないのですが、私がSNSに料理の写真を載せているのを知っているロベルトのジョークだと思います
11:知り合い = メンテナンスブックの撮影・編集をしてくださったカメラマン河合宏介氏
12:ロベルトにインタビューの回答を送ったのは2021年の夏でした
その後まさか戦争が起きるとは・・・ロシアにも知り合いのGUZZISTAがいますが2月26日以降SNSへの書き込みがありません
 
++++++++++++++++++++++++++++
 
ロベルトの15項目の質問に返答したのですが、その何分の一かが使われています。誌面の都合で多くを割愛したのでしょう、こんな表現になったか、これはこういう感じじゃないんだけど、また文脈がもうひとつ繋がらないとかありますが、皆様もお目こぼしをお願いいたします。
 
日本にもたくさんのGUZZISTAがいるなか私に白羽の矢が立ったのはまあずいぶんラッキーなことだったなと思いますが、私個人としてはよき101周年記念となりました。
シェフ・Massi(笑)


mas 

  • -
  • -

1/1

Home

Search
Feeds

Page Top