毎度ご愛顧いただきまして、有難うございます。
今年もイタリアの夏休みには及びませんが、RIPAも夏休みを取らせていただきます。
8月20日(日曜)より通常通り営業致します。
今年も酷暑です、皆様ご自愛くださいませ。
今年もゴールデンウイークがやってきましたが、
リパラーレは英気を養いまして、連休明けに備えます。?
休業日は下記の通りです。
5月1日〜5月6日(土曜)迄
ご迷惑をお掛けしますが、宜しくお願い致します。
画像をご覧になりましたらお判りでしょうかLeMans-IIを850LaMans風に変更しています。 整備状態は大変良好です。
車検期限は「令和6年8月28日迄」走行距離約46000km 価格は応談です。
お問い合わせはメールにてお願い致します。
先日、中央道を東京に向かっていた際、初狩パーキングエリアに昼食を摂りに立ち寄りました。豪勢になりすぎたサービスエリアより、昔ながらのスナックコーナーを備えたパーキングエリアが好みなのです。昼食には吉田うどん(風?)をいただきました。下りのスナックコーナーにはスリダネが各テーブルに常置されてたと記憶していますが、こちらには無くて残念でした。
下世話な話になりますが食後トイレに・・・・・。
用を足していると目の前のモニターに次々と走行上の注意が流れます。「積載注意」「あおり運転」「バイクのスピード注意」と。ですが、あれ? あれれ? もう一度見たい! 再び同じ絵が出てくるのを3周待ちました。
こ、これはモトグッチでは!?
水平単気筒エンジンにアウターフライホイール!ただしフライホイールの位置が左右逆なのですが。さてさて、これを作った方はオートバイに詳しくて、モトグッチが好きなのか? 逆にあまり詳しくないけど仕事を依頼されて当たり障りのない古い画像を見つけて使ったのか?
それにしてもこのモトグッチは一体なんなのでしょう?松葉フォークとタイヤの上部側面を隠したリアフェンダーがヒントになりそうです。
このタイプのリアフェンダーがモトグッチ・レーサーで使われ始めたのは1940年代中盤です。一方フロントフォークは1946年から製造が始まったガンバルンガ500からテレスコピックタイプが使われ始めています。
そこら辺を考え合わせると、ガンバルンガの少し前に活躍していたドンドリーノ500がこのモデルになったのではないでしょうか。どうやら画像は反転しているようですが、時代が合致しているライダーのヘルメットやゴーグルの様子からも、きっとこの絵の元になった画像がどこかにあるに違いないと探してみたのですが、残念ながら見つけられませんでした。上の画像はモトグッチのレーサーを追った書籍のものです。
でもひょんなとこから楽しませてもらいました。謎は謎のままに。
ちなみに追走するクルマのほうはダッジの1972年チャレンジャーという説が。ほんと、どんな方がこのイラストを作ったんでしょう?
mas
9月7日から11日まで、聖地マンデッロ・デル・ラーリオでラドゥーノ・チェンテナーリオ、1年遅れの100周年集会が開かれました。私も行きたかった・・・・・行くはずでした。でも直前に発熱しただけで飛行機に搭乗できない、渡航できない、ましてや帰国できないというのはリスクが高すぎるので断念しました。そのかわり、SNS友人のパオロ(上の画像、左の男性)がたくさんの写真を送ってくれましたので、一部を紹介します。
ちなみに10日土曜日はモトグッチワールドクラブのマリオ会長の呼びかけで山の上のリストランテ、アル・ヴェルデで食事会がありました。残念ながら参加できないので、20数年前にもらったワイン「ロッソマンデッロ」をついに開けました。
そんなに強いワインでもなさそうだったので適当な時期に飲まなきゃ飲まなきゃと思ってたのですがもったいなくて開けられず、さほど良くない環境で月日が経ってしまいました。でもギリギリいただけましたよ!
では以下、ラドゥーノの様子です。
市庁舎広場のカルロ・グッチの像。みながここで記念写真を撮ります。
ガレッリア・デル・ヴェントに飾られた最新作V100Mandello
今回早くもこれに乗ってマンデッロに来てる方もいました。
Sport15、1930年代製
インテークバルブはサイドバルブ、エキゾーストバルブはオーバーヘッドという配置がされています。温度が高いエキゾーストバルブを最も風が当たる場所に置いた叡智!
1932年から初めて軍用として作り出したG.T.17。タンク上にマシンガンをセットしたモデルで有名です。
この方6年前もこの姿で参加されていました。軍装のことがよくわかりませんが、色の様子から北アフリカ戦線のものを模したのでしょうか?
1200スポルトのカスタム
思い切ったデザイン。乗り心地が心配です。笑
50ccのディンゴ(1963−1976)のカスタム
エンジンと前後ホイール、前後サス、スイングアームとステップ周り以外はすべてカスタム、フレームも作っています。
世にスモールブロックと言われている、イノチェンティ工場から送り出された小排気量系エンジンのモデルでこんなにヘヴィな改造をしてるのは珍しいです。
原型を留めているのはクランクケースとトランスミッションとスイングアームのみ、クランクケースの地肌やスイングアームを見るとベース車両はフロリダあたりかと思います。
シリンダーは現在のV7のものでしょうか? 小さなカムカバーが載っています。SOHCにしてカムシャフトをベルトで駆動しているのでしょうが、プーリーは元のカムシャフトにつけているのかもしれません。このカムシャフトの位置からバルブ配置は改造前と同様で、元々のピストンヘッド燃焼室を利用しているのでしょう。ロッカーアームを廃した効果がどれほどあったのか興味あります。
ヘッドの形状がもう少しわかるとよいのですが。別の角度の写真を見てみたいものです。
1000SPのカスタム”ENZO”
エンツォというのは一般に男性の名前です。剣という意味が含まれているとか。
https://www.facebook.com/fuchsworkshop/
カフェレーサーENZOを作ったマッシモは左端の男性。ラヴェンナ在住。実は何年か前に日本に観光に来たとき私を訪ねてきてくれました。イタリア人が日本に来たら私は必ず三鷹の中華そばみたかか、吉祥寺のハーモニカ横丁か、その両方かに連れて行きます。マッシモとも夜の横丁でハシゴ酒しました。笑
今回マンデッロで会えたらよかったのですが、叶いませんでした。残念!
mas
毎度ご愛顧いただきまして、有難うございます。
イタリアの夏休みには及びませんが、RIPAも夏休みを取らせていただきます。
8月11日水曜〜8月13日土曜 迄
これのモジュール化ってやはりワイヤレスにしてそれぞれを独立させることでしょうか。ものすごく矮小化してしまってるかもしれませんが例えばブレーキランプを点けるのに、従来はバッテリーからヒューズボックス〜イグニッションスイッチ〜ブレーキスイッチと通った電流をテールランプまで届けるということを電線上でしていましたが、ブレーキスイッチがONになった情報を無線で飛ばせば済みます。電源もEVならどこからでも取り出せそう(想像です)なので、ブレーキランプなど各パーツが近いところからもらえば済むのでこちらの配線も短くて済むでしょう。なのでこの場合たとえばテールランプやリアウィンカーなど近いものを一体として共通の指令受信機と電源を持つ独立した構造にすることがワイヤーハーネスのモジュール化・・・・・と思いましたが想像です。すみません。
4輪車では1台に使う銅線の長さが数キロにもなるとか・・・・・。そうすると重量面でもコスト面でも無くすメリットはありますね。それにワイヤーハーネス製造はいまだ手作業に依存しているのだそうです。それは生産効率が悪そうだ。モジュール化すれば生産工場のオートメ化も容易にできるでしょうか。ちなみに850ルマンIIはメーターパネル裏の一部に限りますが配線の代わりにプリント基板を使ってスリム化しています。これを拡大したら脱ワイヤーハーネスが進んだかも?でも脱ワイヤーハーネスはそれまで世界の自動車メーカーがお安く使ってきた(想像です)労働力の雇用を奪ってしまうので、もしそうなってしまうなら、いずれ来る時代の波とはいえなんとも切ないものがあります。
もうひとつの半導体不足のほうですが、こちらはものすごい技術革命でも起きて代替品ができないことには、じっと生産態勢が落ち着くのを待つしかなさそうです。モトグッチリパラーレは新車販売していませんので販売車両不足による影響はありませんが、部品の供給が滞るのは困ります。そこで私のカリフォルニア(1986年)やV65スクランブラー(1990年?)に半導体はどれだけ使われてるのかあらためて考えてみたら、
IC式ボルテージレギュレター
ダイオードを使っているレクチファイヤー
以上!
でした。とっても少ないっ!(笑)
ちなみにレクチファイヤーの故障〜交換はあまり経験がありません。一方レギュレターのほうは多くはないですがあることはあります。ですので私の場合は半導体不足で入手難になると困る部品はレギュレターのみですね。いや〜、なんだか古臭いバイクでよかった・・・。しかもICレギュレターが入手できなくても接点式レギュレターというのがありまして、それを探し出せばなんとかリカバリーできるかもしれません。ついでに書きますとほかに起きそうな充電系部品の故障は本当にたま〜にですがオルタネーターのインナーローターの断線か短絡があるくらいです。
部品といえば以前は木箱にどっさり、志賀と2人でようやく動かせる、本当ならフォークリフトだよねという量の部品をイタリアから取り寄せていました。当時モトグッチから送られてくる箱には「Centro Ricambi」と印刷してあって、私たちは「リカンビ」という名のモトグッチの子会社かなんかなんだろうというぐらいの認識でしたので、イタリアに行った際も「リカンビに連絡とってもらって・・・・・」などと話していましたら通訳の方が目を丸くして「リカンビって部品という意味なんですけど・・・」と、 つまりチェントロ・リカンビってのは部品センターのことだったんですね。そんな笑い話みたいなこともありました。
昨今ではメールで手軽に発注できるし、急ぎの際は割とすぐに小口で送ってもらえる。これも時代の波ですね。ただしこのウクライナ戦争後は物流網のゴタゴタもあったようでどこで滞っているのかなかなか届かない部品がありました。それも沈静化した(リパラーレでの感触)と思った6月のはじめころにオーダーした部品がいつまで経っても届かない。あまりに遅いので半月過ぎたころ問い合わせたら、なんとイスタンブールの空港で放置されていたようだったのです!まさかまだEU圏内にあるとは!?載せ替えは飛行機がロシア・ウクライナ上空を飛べなくなっているので迂回のためやむを得なかったのでしょうが、なんで引き継ぎの便にすぐ載らなかったんでしょう。6月末に日本の空港までは届いたらしいです。あとはここまでの配達を待つばかりです。(すでに7月1週めに届きました。遅筆なものでタイムラグが生じてしまいました・・・)
配達と言えば、現在リパラーレでは基本的に車両の引き取りや配達を行っておりません。何年前だったかさだかに覚えておりませんが、整備振興会2輪車支部の会合でオートバイ屋(整備業者)は有償の車両搬送はできないというお話が出たのです。料金をいただいて輸送ができる輸送業ではないからです。オートバイ屋がお客さまのオートバイを運ぶのに何の疑いも持っていなかったのですが、これも時代の・・・・・波と言ってはいけないのでしょうね。なにしろ元々ダメだったのでしょうから、たぶん。
今回このブログでこの件に触れさせていただいたのは、この話をすると驚かれるお客さまが多くいらっしゃるからです。でも世の中的にはですが、車検場で会うバイク屋仲間にも改めて聞いてみれば、ほとんど引き取り&配達はしないといつの間にやら切り替えていました。オートバイを輸送中に事故に遭ったら載せていたオートバイの保証は受けられなかったという話も聞きましたので、どうかご理解いただきたいと思います。車検が切れて乗れない場合はレッカー業者さんをご紹介しています。オートバイ専門のレッカー業者さんが増えて価格もかなりお手軽になりました。走行中の事故・故障はJAFやそれぞれご加入の保険会社のレッカーサービス等もご活用くださいませ。
私の場合は整備士でもありますし、なんとなくですが他人に弄られたくないという偏屈な思いもありまして、出先でトラブルがあってもなんとかして自力で帰ってきたいと思ってます。幸い私が乗っている古くさい2台はコンピューターなぞ積んでませんし、点火系になにかあっても同時に左右両方の火が飛ばなくなることはまずありませんし、事故を起こさなければ、いきなり決定的に走れなくなることはほとんど無いでしょう。
とりあえず自分に起きることで想定しているのは、日頃メンテナンスを欠かさなかったとしても予測しづらい電気系統の故障です。ロングツーリングの出先で、先にも触れましたボルテージレギュレターがもし出先でパンクしたらこんなことをしてみようかなと考えていたことを、この際いい機会なので実験してみようと思います。
上の画像は80〜90年代のモトグッチに乗ってる方にはなじみ深いオルタネーターです。DF端子に給電するとブラシを通してクランクシャフトと共に回っているローターコイルに電気が流れて磁化し、外側のステータコイルに交流電圧が発生するという仕組みです。DF端子に電気を送るのがボルテージレギュレターで、その電気を励磁電流といいます。もしボルテージレギュレターが故障したら、代わりにここに電気を流すことができれば発電してくれることになります。(モトグッチの場合はローターコイルのプラス側をコントロールしますが、逆にアース側をコントロールする場合もあります)
実はSUZUKIのGT750発売時に若いころの志賀が技術講習会に行って、このSUZUKIで初めて採用された励磁式オルタネーターの説明を受けたそうです。それまで日本のオートバイではほとんど採用されてなかったそうで、「やっとこんな高級品を使うようになったか・・・」と思ったそうです。四輪自動車では一般的なシステムなのですが、四輪では一体の発電機・整流器・レギュレターであったのを分割して小型化できたことや、250〜500〜750と排気量があがって車体も大きくなって採用できるようになったのかもしれません。
その講習会で充電不良時のトラブルシューティング、ボルテージレギュレターの故障を確認できる手法として、ローターコイルにバッテリーから直接励磁電流を流すという方法が紹介されたそうです。そうして発電が始まるようならばレギュレターが働いていないと判定できます。ただしそれをやり過ぎるとローターコイルが焼ききれてしまうので注意してくださいという注意も受けたそうです。なので今回まず故障のない現車で励磁電流の電圧を確認してみたところ、エンジン停止状態で5Vとなっていました。
そこで夏休みの宿題工作みたいですが、笑 エネループ4本直列で想定4.8V実測5.3Vの電源を作ってみました。レギュレターがパンクしてもこういう装置を使ってオルタネーターに励磁電流を流したら充電できるのではという実験をすることにしました。
なぜ低い電圧でチェックするのかというと、通常であればオルタネーターの発電量はすぐにバッテリー電圧をオーバーするので、ライダーが走りながらコントロールできないだろうという予想があったからです。
ふだん充電の様子を電流計でチェックをする際、健康なバッテリーでヘッドライト等がOFFであれば3000rpmも回すとボルテージレギュレターが設定電圧に達してカットオフしてバッテリーへの過充電を防ぐのですが、3000rpmというのは市街地を走っていてもすぐに達する回転域なので、もし12Vも給電したら、恐らくかなり短い周期でON/OFFを繰り返さないとならず、それは手動では不可能なレベルなんじゃなかろうかという予測なのです。この実験でローターコイルやバッテリーを壊してしまっては痛すぎますので用心深く5Vでやってみました。その実験の様子は動画にしました。以下のリンクをご覧ください。
自宅前でやったもので、あまり高回転まで&長時間は回せない状況でしたが、こんな装置でもバッテリーに充電できる程度の発電ができることはわかりました。ポジションランプ点灯時は4000rpm回すと、ヘッドライトまで点けると5000rpmで充電が始まるようでした。充電が始まるというのは言い方を変えるとバッテリー電圧より高い電圧が発生したということになります。
ただしランプ等を点けない、負荷のかからない状況でも、5000rpm以上回してたところで、おおむね12.5V程度までしか電圧があがりませんでした。回転があがれば単純に発生電圧もあがると思っていたのですが・・・。本物のボルテージレギュレターはバッテリー電圧をあげてゆくとそれにつれて励磁電流の電圧も5Vから6V〜7Vとあがっていったのでそのようにしなければならないのか、それとも太く長い銅線で構成されているローターコイルに対して乾電池のパワーではこれが限界なのか、ちょっと私にはわからない領域できちんと書けなくてすみません。
ちなみに実験前は5.3Vあった電源キットの電圧ですが、実験後は5.1Vに落ちていました。実験中はほんの2〜3分の通電時間だったと思いますから、このキットでツーリング先から帰ってくるというわけにはいかないようです。
まあでも、私と同様古くさいモトグッチに乗ってらっしゃるかたには朗報があります。だいぶ昔ですがお客さまがツーリング先のたしか浜松から電話をくださって、チャージランプが点きっぱなしなんだけどとご相談がありました。恐らく充電系の故障なわけですが、話し合った結果、お客さまは可能な限り自走で帰ってみると決断されたのです。そしてすんなり帰ってきました!!!「そうか、満充電のあのバッテリーなら浜松から帰って来れるのか!?」と感心しました。もちろんなるべくヘッドランプを点けないとか、休憩を最小限に減らしてセルモーターを使わないなどの対処も必要でしたし、軽自動車と同じサイズのバッテリーを積んでいたからだろうなと思います。バッテリーが小さい現行モデルだと走行可能距離はもっと短くなるのでしょうね。まあいまどきは時代の波(?)で視認性をあげて事故防止するためヘッドランプは常時点灯となっているくらいなのですから”なるべく点けないで”というのもケシカランことなのかもしれませんが。
時代の波というものはある程度先も読めて、ゆるやかに寄せてくるのを眼で追えるようなイメージを持っていました。しかし2009年に書いていたコラム「最後の一滴はどこで?」ではガソリンの枯渇を心配していましたが、いつのまにかガソリンエンジンの生産終了という波がすぐそこまで寄せてきてしまいました。単に私が鈍いだけかもしれませんが・・・。
ところで波の中には「ヨタ波」というのがあります。昔、釣り雑誌かなにかで読んだのですが、台風などの影響で、波が一定に寄せてきているように見えて何十回(回数はちょっと覚えてませんが)に1回は少し大きい波が来る。さらに何百回(何千回?)に1回は予測不能の何倍も大きい波が来ると言います。これをヨタ波というのです。ロシアによるウクライナ侵攻もヨタ波のようなもので自動車業界にも余計な波を届けてしまいました。少しでも早く、良いかたちで収まりますように。
mas
イタリアで季刊発行されている「La Rivista dei Guzzisti」(=Guzzist Magazine)の80号、2022年4月号の「人物紹介」に載せていただきました。MOTO・GUZZIワールドクラブに入会されている方の元には届いていることと思います。
本文にもありますがたまたまSNSを通じて知り合って、その後2016年の95周年イベントでは実際に会うことができたロベルト・ポレッリはモータージャーナリストでした。それで彼が毎号受け持つページを私に割いてくれました。ひとつは二輪車も四輪車も、たくさんのメーカーが世界に輸出してた日本でGUZZIに乗ってるのが不思議でしょうがないのでしょう。そしてもうひとつは私がちょいちょい(と言っても5年おき笑)マンデッロに出現しているので目についたのでしょうか。
以下はその記事の和訳になります。もとは私がインタビューされたものでその原稿が手元にありますが、彼がどのように書いたかを知りたいのでそちらに忠実に、いえ完璧な和訳という自信はありませんが訳してみました。ご覧になってみてください。
<日出る国の鷲たち>
ロベルト・ポレッリ
日本から、GUZZIへの強い情熱
我々とは全く異なる遠くの人々とじかにコンタクトがとれるソーシャルネットワークのチカラに感謝している。何年か前、とある編集の仕事のために白のカリフォルニアの写真を探してたくさんのグループに相談していたのだが、それに応えてすぐさま写真を送ってくれたのは、ある親切な日本人だった。その後ネットでのやり取りを始めて、マンデッロ・デル・ラーリオのモト[1]への情熱を分かち合い、集会の際にはエマヌエーレ・ヴィットーリオ・パローディ通りの赤い鉄柵[2]の前で私たちは実際に会った。ラーリオの地に立つ、東京のナンバープレートをつけた彼のGUZZIは、私の長いライダー人生のうちでも心に迫る姿だった。
友、Massi、1964年生まれ、実際にはタカヒロ・マスモトという。彼のあだ名はイタリアで起こった愉快なエピソードに由来がある。
2001年、彼がサン・ベネデット・デル・トロントまでカリフォルニアで走ったとき、料金所に着いたら通行券が失くなっていた。料金所の係員は料金不足分を支払うための書類を作らねばならず名を尋ね、彼は日本でいつもするように苗字だけ「マスモト」と伝えた。ブラヴォーなその料金係はそれを聞いて「マッシ・モト」と書いた徴収票を手渡したのだった。その後、彼の友人たちは(GUZZISTA[3]もそれ以外も)彼のことをMassiと呼ぶようになった。
この友である日本人は東京のモトグッチ・リパラーレという名の、完全にGUZZI専門の工場でメカニックとして働いている。
「僕は19歳だった1983年にモトに乗り始めた。その少しあとにモーターサイクリストという日本の雑誌の輸入車の記事を読み、V35イモラの存在を知った。このときから文字通りGUZZIに憑りつかれることになった。とりわけ僕の免許で乗れる数少ないイタリアのモトであったことも大きい。
1987年にはついに鷲の実物を見に行った。とてもドキドキしたのを覚えている。こうして僕の最初のGUZZI、V35イモラ2と出会ったのだ。たった1度、ほんの数キロの試乗をしてすぐに購入を決めた。イモラ2ののちカリフォルニア2を所有し、2015年まではルマン1000も所有していたが、ルマン1000がGUZZIの中の最高のモデルだ確信していたにもかかわらず、V65のレストアに夢中になってルマン1000を手放した。」
現在、我々の日本の友は15万km走ったカリフォルニアIIも所有している。道具として、信頼できるパートナーとして、そしてとても興味深いことに彼はワィンディングロードでもカリフォルニアを楽しんでいる。
「僕のカリフォルニアは実はポリス仕様で、青灯とサイレンまで備えていた。」
ーーMassiは説明するーー
「ある日のこと、横田のアメリカ合衆国空軍基地の近くを走っていたときモトに乗った2人のアメリカ兵が前にいた。彼らは警官がいると思ったのだろう。法定速度を忠実に守っていた。おかげで僕らは超ゆっくりと走ることになってしまった。あの日ののち、すぐにあの装置たちを取り除いたのさ。」
Massiはこんな楽しい話をする。しかしついで真剣な話を始める。彼の国を襲った悲しい部分に話は移ってゆく。
「僕のカリフォルニアは2011年の地震と津波のあとも良きパートナーだった。カリフォルニアで荒廃した地域を訪れ、復興を助けるボランティア作業についた。2012年の春には週に1度だけの休日を使って福島への旅を始めた。思うに僕の活動にとって重要だったことは・・・」
ーータカヒロは続けるーー
「毎回600kmの道のりを通って、それでも6時間シャベルで瓦礫をすくうことができた。僕のGUZZIのおかげだ。」
彼は何年かのちに新しいプロジェクトを始める。
ーー彼はこう話したーー
「2014年にスクラップになった古いV65フロリダを買って、これをベースにして1台のスクランブラーを作った。現在ブームでよく見るエレガントなスクランブラーではなく、有能で実用的な、オンロードモデルでありながらサイレンサーを高くすることでオフロードも走ることができるモデル[4]をと企んだ。」
Massiに言わせるとGUZZIはライダーと親密な関係にあるという。一般のライダーの運転能力とGUZZIのパワーの優れたバランスがあり、しかもその2気筒エンジンは人間の心臓の鼓動と等しいリズムで回っている[5]と主張しているのだ。
「GUZZIに乗ると言うことは日本を小さくするということ、なぜなら運転をまったく止めたくなくなるからだ。」
と結論している。
【日本のクラブ】
モトグッチ・オーナーズ・クラブ・オブ・ジャパンはMOTO・GUZZIの公認の輸入業者の諸井敬商事のもとで1985年8月1日に生まれた。最初の会員は70人だった。日本でGUZZISTAであることはけっこうな変わり者だといえる。というのも多くのライダーはイタリアの鷲はまったくもって異質な魂を持っているとみなしているからだ。
「僕の考えでは」
ーーMassiは我々に説くーー
「互いに似たようなものを作っている日本の4つのメーカーのモデルは、ヨーロッパのモトと比べると強い個性に乏しい。思うに、だからこそ日本のライダーのある程度の割合の者が外国製のモトに魅せられるのは自然なことなのだ。
かつて日本の当局は400cc以上のモトを運転することを熱望する人々にとても厳格な運転技術試験を課していた。そのことが多くの人に小排気量のモトを選ばせる動機となった。こういった背景から日本においてもっとも売れたMOTO・GUZZIは恐らくV35イモラだろう。
あの頃、青や白のモデルもも並べられていたとしても、皆が欲しがったのは赤いGUZZIだった。かつての日本のマニアたちはイタリアのモトは赤に限ると素朴に思い込んでいたのだ。
その後当局は日本のライダーがより簡単に上級のカテゴリーの免許を取得できるように運転テストのレベルを下げた[6]。チェンタウロとグリーゾは最初のうちは日本で人気が無かった。しかしそれらの生産が終わった後だいぶ経ってから人気が出てきた。このことは日本人が新しい設計に反応するのが遅いことを示している。
近年はV11シリーズとV7シリーズが日本のGUZZISTA人口を増やすのに貢献した。」
【私のマンデッロ、出会い】
「あの時、工場の前で君に会うことができて本当に嬉しかった。」
ーーMassiは私に語るーー
「君以外にもたくさんのGUZZISTIに出会った。中でもMOTO・GUZZI・WORLD・CLUBの会長マリオ・アローシオに会えた。
マンデッロでは夢の5日間を過ごした。ギザッロの聖母礼拝堂を訪ねたり、レッコからヴァルサッシーナへとツーリングしたり、その際にエィジノ・ラーリオまで足を延ばすことを勧められた。その地域の眺望はともかく素晴らしく、本当に行ってよかった。
日曜の昼はGUZZISTIが集う場所、リストランテ・アル・ヴェルデに向かったが[7]、登る道を間違えた。僕は道を戻り、とある家の前でおしゃべりをしていた人々に道を尋ねた。僕が困っているのを見て1人の男性がスクーターに乗り込み親切にもリストランテまで連れて行ってくれたのだ。彼はリストランテの前から小さな谷の向こうの一点を指さしてあそこが彼の家だと教えてくれた。そして以前はMOTO・GUZZIで働いていたのだと付け足した。日曜の昼なのに彼の親切はありがたかった。
ミーテイングでは、クラブ・ヴェッキエ・ルオーテ・デル・ラーリオのカルロ・マリアも彼らのイベントへ招待して参加させてくれたのでとてもよく覚えている。イタリアに行ったのを機に、アマトリーチェの震災のあとだったので、我々のクラブの会員が哀悼のシンボルとして作ったオリガミ[8]を持って行った。現地の市長にオリガミを手渡してくれたテルニ在住のジュゼッピーノ・プロイエッティに感謝します。本当に敬服すべき行いです。」
【東洋から見たイタリア】
「国の違い、社会の違いがあるが、根本的には人間の違いだろうと言いたい。僕にとってイタリア人はアイデンティティーを強く持っているように見える。大きな信念を持っている。例えば君たちは地域ごとの伝統的な料理を保護して、誇りを持ち、愛している。」
ーーMassiが話すーー
「日本にも伝統的な料理はあるが、我々はそれに手を加えるのも好きだ。我々には創作という名のレシピの変更をよくやる悪いクセがある。
30年以上前、東京にとあるレストラン・チェーンがあった。僕はまだ学生で、ある日生まれて初めてスパゲッティ・カルボナーラを注文した。だけどこれにはたくさんのほうれん草やキノコやタマネギも使われていたのだった[9]。同じことがワインにも起きる。あるイタリアワインの本を持っているのだけど、その本からそれぞれのワインに使うぶどうの種類が定義され、その比率や製造の方法が厳格な規格によっていることを知ってとても驚いた。日本にはサケの藏がたくさんあるが、みなそれぞれの地域に供給するために風土に調和するようにそれぞれの判断で作っている。」
これはときたまシェフの帽子をかぶるためにヘルメットを脱ぐMassi[10]の説明です。
【夢の旅】
「とても実現できないようなことはあまり夢見ないようにしている。ただ以前一度、世界一周ツーリングをやった知り合い[11]がイタリアへのツーリングを勧めてくれたことがあった。もし安心して一定のスピードで旅ができるユーラシア・ハイウェイのようなルートが現存してたらウラジオストックからイタリアまで走りたいな。」
親愛なるMassi、それは夢に終わるよう運命づけられたよ。なぜなら我々の大陸に戦争が起きてしまい、そこの住民の人生と夢をめちゃくちゃにしてしまっているから[12]。終
<注釈>
1:モト = モーターサイクル、オートバイ
2:エマヌエーレ・ヴィットーリオ・パローデイ通りの赤い鉄柵 = MOTOGUZZIの工場の旧正門
3:GUZZISTA = GUZZIに乗るライダー(GUZZISTIはその複数形)
4:モデル = オフロードモデル出現前の60年代に作られていたスクランブラー
5:心臓の鼓動と等しいリズム = 以下参照「GUZZI・TEMPO」
6:運転テストのレベルを下げ = 「免許を取りやすくなった」がこのように解釈されました
7:
文中マンデッロ周辺の位置関係です
アル・ヴェルデは山の中腹にあります
8:オリガミ = 千羽鶴のこと
9:カルボナーラ = 本来野菜や生クリームは使わない。本来は卵黄、チーズ、塩漬豚肉、白ワイン、塩胡椒のみです
10:実はこの部分正確に訳せてないのですが、私がSNSに料理の写真を載せているのを知っているロベルトのジョークだと思います
11:知り合い = メンテナンスブックの撮影・編集をしてくださったカメラマン河合宏介氏
12:ロベルトにインタビューの回答を送ったのは2021年の夏でした
その後まさか戦争が起きるとは・・・ロシアにも知り合いのGUZZISTAがいますが2月26日以降SNSへの書き込みがありません
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ロベルトの15項目の質問に返答したのですが、その何分の一かが使われています。誌面の都合で多くを割愛したのでしょう、こんな表現になったか、これはこういう感じじゃないんだけど、また文脈がもうひとつ繋がらないとかありますが、皆様もお目こぼしをお願いいたします。
日本にもたくさんのGUZZISTAがいるなか私に白羽の矢が立ったのはまあずいぶんラッキーなことだったなと思いますが、私個人としてはよき101周年記念となりました。
シェフ・Massi(笑)
mas