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イヴァノ・ベッジオとグッチスタ

80th Moto Guzzi Day

この時期は毎年、マンデッロ・デル・ラーリオで9月に開催されるGMG(モトグッチ・ディ)の詳報が届いて、行く年であれば飛行機や宿の手配を始めたり、そわそわと楽しい時分なのです。昨年は待ちに待ったモトグッチ90周年のイベントがあったのですが、ご存知のように大震災が起きてしまい、それが原因で自粛したからというよりも、気が乗らないまま準備を進めることもできず夏が来て、いつのまにやら時間切れという感じで参加を見送ってしまいました。
なにしろ9月のイベントに合わせて宿を抑えるなら春には済ませておかないと間に合わないのです。マンデッロ周辺はおろか、元々ホテルが多いレッコ湖コモ湖の各地も予約でいっぱいになってしまいます。一度はどうしても部屋がとれずに、ギリギリになってイタリアのクラブが押さえていた部屋を融通してもらったこともありました。

5年ぶりに、そして5年前から当然のごとく行くつもりだった90周年イベントに行けなかったので、今までの訪問をとても懐かしく思い出してしまいます。私の場合はなんといっても自分のカリフォルニアで参加した2001年の80周年モトグッチ・ディがとりわけ懐かしいのです。
そのころのモトグッチはレッコの湖面に浮かんで波間に揺れる1枚の鷲の羽根。ようやくアプリリアのオーナー、イヴァノ・ベッジオ氏の手によって拾い上げられたところでした。

2001年からさかのぼること5年前、1996年のモトグッチ75周年イベントで壇上にいたのは、当時の大株主企業フィンプロジェッティから派遣されていたDr.アルフォルノ・ザッキでした。イベントの雰囲気はいかにも田舎町での大パーティという感じで、であるがゆえに初参加の日本人でさえもグッチスタであるというだけで迎え入れられ、それはそれはホーム感たっぷりなものだったのです。だからこそ私は自分のカリフォルニアでの再訪を決意して5年間を準備しつつ待っていたわけですが、この96年から01年までの間はモトグッチを巡って目まぐるしく様々なニュースが飛び交う時期になったのでした。
ちなみにこの96年以前もモトグッチは「SEIMM MOTO GUZZI S.p.A.」、デ・トマソ傘下だった頃の「GBM」、そして再び「MOTO GUZZI S.p.A.」と社名や経営形態はさまざまに移り変わってきてはいたのですが、当時まだ私も含め多くの日本のグッチスタはそのような本国の事情にはあまり興味なしという状況だったのではないでしょうか。

さて96年に戻ります。まずアメリカの投資グループによる大きな資本投下があり、一方3年間社長を務めたDr.ザッキは退任しました。その後、元アプリリア重役のオスカー・チェキナート氏が就任。すぐにモンツァのフィリップスの工場を買い取ってそこに移転するというプランが明るみになってマンデッロに激震が走りました。
モンツァ移転話が無事に頓挫したあとは、ビモータを買収するとかKTMに買収されるとか様々な噂が世界中のグッチスティをやきもきとさせていたのですが、これにひとまず決着がついたのが2000年の春。ついに負債もろともアプリリア傘下に入ることになったのです。

当時、年間生産台数が5000台ほどだったモトグッチに比べ、当時のアプリリアは確かに勢いのあるメーカーでしたが、エンジン開発能力はまだまだだったのではないかと想像します。この買収は単なる救済ではありません。表面的には見えにくいモトグッチの技術力の蓄積に目をつけたのではないでしょうか。
のちのちの様子を見ると、マンデッロのメンテナンスエリアでポリス仕様が施されたアプリリア車両が置かれたりしていて、そういった艤装などの多様なノウハウや官へのパイプまで同時に手に入れたとしたら安い買い物だと感心したものでした。



Beggio & Todero

80周年モトグッチ・ディでは、当時波に乗っていたベッジオ氏(写真左黒ジャンパーの人物、中央スーツの人物はウンベルト・トデーロ技師)は超ゴキゲンで、学者然としていたDr.ザッキのたたずまいとは好対照でした。イベントの壇上ではマイクをとってグッチスタ達を盛り上げ、壇から降りれば皆の求めに応じてサインをしたりツーショット写真を撮ったり忙しかったのでした。もう時効だと思って書きますが、当時生え抜きのモトグッチの社員間では「そんなにサインが好きなら1回500リラとって商売にすればいいんだ」とソフトに陰口も囁かれていました。(ちなみに当時、街のバールで飲むエスプレッソがだいたい1500リラくらいでした)
まあ、売却された側の気分としてはそんな反感も仕方ないでしょう。とあるイタリアのモトグッチ・クラブがモトグッチ・ディに参加するために作ったTシャツには以下のようにプリントされていました。
「モトグッチ イズ ラグジュアリー ブランド オブ アプリリア」
この言葉を胸にマンデッロの街を練り歩いていたのです・・・・・まさに悔しさと自負のあらわれ。実はモトグッチ・ディ会場でベッジオ氏とツーショット撮影させてもらって喜んでいた私は内心「これぞ本国のグッチスタか・・・」と舌を巻き、日本に帰ってきたのでした。

ただ、その前後の様子を見るに付け、イタリア本国のグッチスタ達の敵対感情はやや先走りすぎていたような気がしてなりません。まず、ベッジオ氏は1年の間にマンデッロの工場を進化させていました。部品工場には新しい工作機械が並び、組み立てラインも一新されました。大量の工作機械の入れ替えはかなりの設備投資になります。またそれまで写植するように活字を並べて打っていたフレームやエンジンナンバーですが、こちらもコンピューター制御のレーザー印字を使い始めました。



il stabilimento

もっともこういったことについても、モトグッチの旧来の人間の中には
「今までの設備でもオートバイは造れていたじゃないか」
と考える向きもあったかも知れません。
長い歴史のなかで、膨大な技術の蓄積がなされ、設計面でかなり成熟して、まさに玄人ウケならするオートバイ造りを続けてきていたのと同様に、経営面でもある意味達観のような状態に達していたようです。
「モトグッチは年間5000台売れればいいメーカーだ。良い年でも10000台には届かないだろう」
と明言する重役もいたのですから。

このことを私は「達観」と書きましたが、人によっては
「だからモトグッチは身売りしなきゃならなくなるんだ」
と言うかもしれません。ただ念のため書きますが、これは決して
「どうせ5000台しか売れない」
という諦観などではなく、多くのメーカーがひしめく中で自分達の位置を正しく見据えるのと同時に、拡大路線とシェア争いの行き着く先を知っているからこそ言えたのではないかと思います。

思いはさまざま・・・・・しかしながらベッジオ氏後、V11シリーズによってニュースが多い状況を演出しましたし、新しいデザインのアパレル・ラインナップも発売されたりしました。こうした表面的な部分だけ見てもモトグッチの活性化に貢献したことは間違いありません。
そして最も懸念されていたのではないかと思われるモトグッチブランドの取り扱いですが、この点ベッジオ氏はグッチスタ達の気持ちというものを先んじて理解していたような気がします。モトグッチに限らずオートバイファンならきっと少なからず抱いてるメーカー愛に水をぶっ掛けるようなことはなく、グッチスタの前ではアプリリアのアの字も出さなかったのでした。
モトグッチを傘下におさめて君臨する征服者のように見られていたイヴァノ・ベッジオ氏・・・・・実は彼自身がモトグッチへの憧れを持っていたとしても不思議はありません。彼がアプリリアの社長になり、モペッドや小排気量モトクロッサーを作り始めた60年代の終盤に、モトグッチはあのV7を発売しました。アプリリアから見ればモトグッチはレースでの栄光を冠したはるか先を行く巨大メーカーだったのですから。
もちろん経営者として、純粋に救済のためにお金を施すようなことはなし得ません。ただ敬意あればこそ、新オーナーでありながらモトグッチ愛を身にまとっていたように思えて仕方ありません。





あとがき的に・・・・

冒頭「この時期・・・」とありますが、実は書き始めたのは4月ころでした。思い出し思い出し取りとめも無く書くものですからたったこれだけのものに時間がかかってしまいました。
イヴァノ・ベッジオ氏については、その後経営難に陥り、創業の父親から引き継いだアプリリアを彼自身が去らねばならなくなったこともあっていくらか同情的に見てしまっているかもしれません。

「モトグッチは年間5000台売れればいいメーカー・・・・」
というスタンスは気分としては大いに同調するところですが、私共モトグッチリパラーレはモトグッチでのみ仕事をさせていただいているので、モトグッチ・ユーザーはやはり増えて頂かなくてはなりません。
モトグッチには強い個性があります。ゆえにモトグッチに選ばれるライダーは限られているのかもしれません。要はウマが合うかどうか。だからどうかじっくり、余分な情報に惑わされずに、何も足さず何も引かずに乗ってみてください。感覚にはライダーそれぞれの経験値も反映されるのです。またどんな趣味でも同じですが何かを始めるとき、いきなりネット情報のごとく行動・体感できるはずもありません。モトグッチに乗るという人生・文化・・・・・それは長く乗って初めて生じる、自分で積み上げてゆくものなのですから。



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verso sera

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