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虎徹

私は小説はたまに歴史小説を好んで読みますが幕末はすっかり手薄でありまして、たとえば人気者の坂本竜馬について書かれたものは読んだことを思い出せないくらいです。それでも手薄とはいいながら、幾度も読み返すのが司馬遼太郎の「峠」であり、たまに拾い読みする「新撰組血風録」があるのです。
新撰組血風録のなかで司馬遼太郎は近藤勇の佩刀、長曽祢虎徹入道興里(ながそねこてつにゅうどうおきさと1596〜1678)作、通称「虎徹」(こてつ)について書いているのですが、「見たら贋物と思え」と言われるこの刀については諸説紛々、司馬遼太郎が採用した説によれば近藤勇の佩刀は源清麿(幕末の刀工)の刀を虎徹だと信じこまされたものとしています。

さて、長曽祢虎徹入道興里についてはウィキペディアでもご覧いただくとしてその作品である虎徹のほうですが、新撰組血風録では虎徹のことを評して
「姿(なり)こそわるい。しかしその鋭利なことは、平安、鎌倉の古鍛冶でもおよぶものはすくない」と、また
「最初のひと目がわるく、一種の不快感をおこさせる。が、身辺に永くおけばおくほどその姿がおちついて来、ついにはこれこそぬきさしならぬ姿だ、とまで惚れこませる力をもっている・・ ・」と書いています。

さらに、とある大旗本に注文された虎徹を届けたところその見た目があまり喜ばれなかったので 、虎徹入道は庭にとびおり松の大枝をサクリと斬り、勢いあまって枝の下にあった石灯籠に数セ ンチ切りこみながら刃こぼれひとつせず、大旗本は怖れ、無礼を謝して刀を納めた。これを石灯籠切と呼ぶ、というエピソ ードも紹介しています。

私がなにより気に入ったのはこの虎徹評でした。
初見はわるい、がじきに抜き差しならぬ姿だと見惚れるようになり、そして斬れる。
これはモトグッチと同じではないか!!と。



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なんでもモトグッチにつなげて考えるのは悪いクセでしょうか。どうぞ笑ってやってください。
そういえばモトグッチをスコッチウィスキーのモルト(原酒)のひとつであるラフロイグにたとえた方がいらっしゃいまして、なかなかうまい事をおっしゃるなあと思ったものです。ラフロイグは初めて口にすると一瞬「えっ、これはウィスキー!?」と思わせるほどに独特の香り(俗に薬品臭などと言います)が強いのです。そこをモトグッチが個性的であることに重ねられたのでしょう。

・・・・・が、ネットで調べていましたらドカテイをラフロイグにたとえて語る方もいらっしゃるようです。モトグッチとドカテイがラフロイグで競合してしまうならば私が交通整理してみましょう。硬質でシャープなイメージのドカテイはハードな口当たりのタリスカ、モトグッチはラフロイグと同じアイラ島産で同様に強い個性を持っている、スモーキーフレーバーが特徴のアードベックというところではいかがでしょう。ラフロイグはもちろん好きですが、あれほどにモトグッチは奇でしょうか?
おっととと、奥が深いスコッチのことを安易に書くと後難が恐ろしいのでほどほどにしておきましょう。お口直しにムゼオ・モトグッチ、モトグッチ本社の博物館に掲げられているポスターをご覧ください 。



ポスター

どうでしょう?なかなか洒落たポスターだと思いませんか?ただ、さまざまな異論も聞こえてきそうです。それはドカテイでは?とか、いやむしろグッチはマセラーティーが・・・とか、あるいはフィアットだろう!とか?

こんな論争で遊ぶのも楽しいものです。ただしそれは気の合った相手とだけにしておくべきでしょう。本来こんなことはそれぞれが好き勝手に思いこんでいればよいことなのですから。そもそもなにをもって、どこに注視してオートバイを評価するかは人それぞれなのですから。そもそもそれぞれの経験値が異なれば、測りをあてる角度が上からであったり下からであったりとまちまちなのですから。

ちなみに日本のグッチスタは日本でのモトグッチのシェアから見ても、あえて書きますが、いずれ「ひとくせある」ライダー として分類されるべきなのかもしれません。シェアが少ないのはモトグッチに乗るに至らないなにかしらの障壁、たとえば性能・価格・外観・悪評?(たとえばアフターサービスが悪いなどの?)、どんな理由かそれはわかりませんが障壁があるはずで、私たちはそれらを乗り越えてしまった、あるいは感じなかった面々なのですから。
そういう意味では・・・・・・・・先の「初見はわるい」というのは見た目の好みであったり、一般に慣れぬ乗り味であったりを大きく捉えて書いたつもりですが、そんな障壁をいつのまにか乗り越えて、すでにモトグッチとともに人生を歩んできてしまっているグッチスタからすれば「初見がわるい」と言われても「そういえばそうだったかなあ?」というほどのものでしかないはずです。

こう書いてしまうとモトグッチはやはり奇なるものであって、それを受け入れたグッチスタもまた奇なり、その他の多くのライダーにモトグッチは受け入れられないということになってしまいそうです。ただそこから先が芸術作品と、乗り物や道具(芸術性・神秘性があるにせよ)との違いなのです。先の石灯籠切虎徹のエピソード同様、「使えば斬れる」からです。第一印象が悪くても、使い込むとそれが徐々に変わってゆく・・・・・斬れるようになるまで時間を要するかもしれませんが。



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さあ、虎徹のことを置き忘れていました。

この記事を書く前に虎徹の話を持ち出した際、志賀がすぐに「今宵の虎徹は血に飢えている」というセリフを口にしたのです。映画かなにかで有名なセリフらしいのですが、出典が正確にわかりません。私にはまったく記憶がありませんので少なくとも私が物心つく前の作品だとすると

1928年「新撰組隊長近藤勇」 近藤勇役 阪東妻三郎
1954年「新撰組鬼隊長」 近藤勇役 片岡千恵蔵
1963年「新選組血風録 近藤勇」 近藤勇役 市川右太衛門
1965年「新選組血風録」(テレビドラマ) 近藤勇役 舟橋元

などがあるようです。
「今宵の虎徹は血に飢えている」などと臭いセリフを言ったのは誰?・・・・・・志賀は片岡知恵蔵あたりでは?という記憶だそうです。いずれにせよ司馬遼太郎の「新選組血風録」が原作であればそんな芝居がかったセリフは馴染まないような気がしますので前2作ではないでしょうか。

でも・・・・・・・ちょっと待ってください。モトグッチに「開けろ開けろ!!」と言われたことはありませんか?高速道路で「戻すな戻すな!!」とけしかけられたことは?そして巡航速度が少しづつ上がってゆく・・・・・・・・・血に飢えているのはモトグッチなのでしょうか!?
「血に飢えて」はフザケすぎだとしても、ここまで来たら本物の虎徹を見ないでは済まなくなりました。



刀剣博物館

いろいろ調べると京王線初台駅近くに刀剣博物館があり、5日からの新春名刀展の展示リストに虎徹があるではないですか。そこで年明けて5日、さっそく行ってまいりました。

入り口すぐに国宝の鎌倉期の古刀が据えられ、そこから数々の刀が年代順に並べられています。順に見ていくと映画「魔界転生」でその名を覚えた「村正」があるのを見つけました。徳川将軍家に仇なす妖刀というのは伝説に過ぎないのかどうかわかりませんが、あの村正です。ーー以下、私は刀剣鑑賞についての素養がないことをご承知のうえお読みくださいーー見ると刃文がゆるやかに波打ち、スラリとした姿いかにもカタナ!という印象に、わかりもしないのに「さすが村正」などと心中思ってみたりしつつ、これを基準に虎徹と比べてみるのもよさそうです。

さらに歩を進め一本一本ゆっくり見ていくと、奥の展示棚に異彩を放つ刀が待っていました。虎徹です。よくみるとその先にも虎徹がずらり、全展示32振り中7振りの虎徹が展示されていたのです。下調べしたホームページにはそのようには書いてなかったのですが、なんとこの新春名刀展では寅年にちなんで虎徹を大きく扱っているということなのです。
さて異彩というのは刃文。新撰組血風録にも描かれている数珠刃というその刃文は、小さな目玉が無数に並んでいてこちらを見据えているかのよう。数珠刃という名のみを知っていて現物を知らない私がみてもすぐにそれとわかるほどのものだったのです。最初に視界に入った万治4年(1661)作のひと振りの刃文がもっとも顕著で、あとのほうに並ぶ延宝2年(1674)のものはなだらかに抑え目な乱れとなっていました。

歩みもどって他の刀と比較してみます。すぐにわかるのは反りが村正や、村正に同じ室町時代の作で名も知れている備前長船などと比べて浅いこと。そして幅があること。これらはどうも時代の特徴のようで、虎徹と同時代のものは同様に反りが浅く、切先(帽子と呼ぶそうです)短く、やや先細りながらも手元近くは幅のあるどっしりした姿です。これは永い戦乱ののちにできあがったかたちなのでしょうか。最後の大規模戦闘であった島原の乱(1638)から23年経っているとはいえまだ戦士の生き残りもいたことでしょうし。
ただこの比較では新撰組血風録にあるような「最初のひと目がわるく、一種の不快感をおこさせる。」という虎徹像は見えてきませんでした。その時代に刀の所有階級として生き、前後の流行や使い心地まで体験したうえでないとその不快感というものはわからないのかもしれません。

しかしおかしなことにその「長曽祢興里虎徹入道」と銘のある数珠刃の刀を見たあとは、最初に「これぞ日本刀」と思わせた「村正」をはじめ他の国宝や重文クラスも色あせて見えるのです。すでに虎徹にひいき目たっぷりな心持ちに至っていることは否めませんが・・・・・・決して血に飢えているようには見えず、ほれぼれするような美しさという感触でもなく、なぜオマエはそういう姿なのだ?と見つめずにはいられない・・・・このことなのでしょうか。しかしながら、こうしたアクの強いものを好むへそ曲がりな私の感性がいっぽうで「素晴らしきモトグッチ」と言わせているだけだとは認めたくないものです。

なぜならモトグッチの在りようは必然の積み重ねであり、競争の中でむりやり独自性を出さんとしたり奇をてらったりした結果のものではないからです。もちろんデザイン面でも同様にV10チェンタウロがそうであったように最初は「うっ!これはどうだろう!?」と思わせたものが、ある瞬間、ある角度からふと見たときに「これか!!」と気づかさせる美しさを持っているのです。
まあそれでも世界の大メーカーが4社もひしめく日本にいながらモトグッチを選択するグッチスタははたから見ればやはりどこかしら「ひとくせある」ということになるのでしょう。言わせていただくならば日本のグッチスタは「奇」というよりは「稀」。稀(まれ)なる眼識を持つ人々であり、また最初はモトグッチのあれこれを識しらずに乗り始める人々(私がそうでした)は稀なる幸運の持ち主なのです。
そしてモトグッチは「奇」というより「綺」にして「驥」(き)なる、美しきたくましき相棒です。たまに血を欲する(!?)茶目っ気を見せますが、そんなところも私たちをとらえて離さないのです。

ことしの干支の寅にかけたつもりはなかったのですが、おまけに私は鷲の子の一人のつもりですから虎にはシンパシーを感じないのですが、不思議とこの年末年始は頭から「虎」の一字が離れませんでした。しかし今年も鷲年のつもりで我田引水、なんでもかんでもモトグッチに結びつけて考えてゆこうと思っております。



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