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イタリアの鷲と豚の話 (Mandello e Moto Guzzi vol1)

現在のマンデッロ
<マンデッロ・デル・ラーリオ 2016年9月>
 

2016年9月、モトグッチの95周年でにぎわうマンデッロ・デル・ラーリオの一角にひとつテントが設置されて、出版されたばかりの本が売られていました。私もさまざまなモトグッチ書籍を見ていますが、その分厚い本には見たことの無い写真ばかり載っていて、すかさず買ったものです。その際、テントにいたマダムが「12月にまたマンデッロにいらっしゃい!2巻が出るのよ!」とおっしゃるのですが、そんな頻繁にイタリアに行けるわけがなく、入手できるのはたぶん5年後か・・・と諦めていたのですが、マンデッロで部屋を貸してくださったご夫婦が年明けに来日することになったので重いのに買ってきてもらったのです。
上下2巻合わせて1300ページ!!そんな膨大なイタリア語の文はとてものこと読めないので、写真を眺めてはキャプションを拾い読み・・・・・してたのですが、どうも創業当時のグッチ家の人々にじかに会った方々へのインタビューや、マンデッロの人々が所有していた古い写真などの資料なども載っていて、今までのモトグッチ関連書籍とは情報量もですが、情報の質が異なるようです。ちょっとこれは真面目に読んでみようかなあ?・・・・・と、ついに大海に漕ぎ出してしまったのでした。
  
題名は「GUZZI L'idea che ha cambiato Mandello」イタリア語の"idea"は英語と同じくアイディアでいいのですが、どう日本語にするか迷っています。「グッチ マンデッロに変化をもたらしたその理念」、あるいは「信念」とか。もう少し読み進めないと決められそうもありません。もちろんモトグッチの実際の関係者でもある、マンデッロの人々の記憶・証言・資料をまとめた、町の側から描くモトグッチの歴史書です。


 
グッチとマンデッロの本
 

記述はまずカルロ・グッチの家族の描写から始まります。ミラノの裕福な中産階級であった家族の、ミラノ理工大の著名な教師であった父、画家一族の一員であった母、土木技師として数々の仕事を地域に残し、モトグッチの技術部の責任者としてやがて伝説となるノルジェをカルロと共に作り、1928年に彼自身がカポ・ノルドに到達した兄、周辺の山々の登攀ルートを開拓し第二次大戦中は反ファシストのパルチザン活動に身を投じた姉と妹、などなどです。
   
そしてカルロ(1889−1964)。彼は少年の頃はマンデッロにあったグッチ家の避暑のための別荘で長い時を過ごしました。そして近くの鍛冶屋ジョルジョ・リパモンティ(通称フェレー)のもとへ通うのです。当時の鍛冶屋は便利屋さんのような役目を負っていたのでしょう、フェレーはモーターサイクルメカニックでもあったので、彼の工房でカルロは機械工学やモーターサイクルへの興味と情熱を育んだのです。やがてヴィチェンツァの工業学校に通いエキスパートとして卒業するのですが、どういう事情か勉強を続けることができず兄のようにエンジニアまでにはなれなかったようです。それでも彼の中では1910年代のモーターサイクルの、エンジンを潤滑するより乗り手のズボンに飛んでくるほうが多いオイルの問題の解決策や、アルプスのすべての峠を越えることができるような中小排気量の単気筒エンジンをもつ信頼性の高いというモーターサイクルの構想が膨れ上がっていたのです。

1914年に第一次世界大戦が始まり、カルロはイタリア空軍(正確にはまだ空軍は設立されておらず、王立陸軍航空部隊と王立海軍航空部隊があったようです)に召集され、そこで2人の友ジョルジョ・パローディ、ジョヴァンニ・ラヴェッリと出会い、戦後3人で新しいモーターサイクルを造ろうと語り合いますが、戦後すぐにジョヴァンニ・ラヴェッリは飛行機事故で亡くなってしまいます。そして残った2人で作り上げたモトグッチには亡くなった友を記念してイタリア空軍(王立空軍の創設は1923年)の翼を拡げた金の鷲のマークが冠されたという伝説が生まれます。


 
イタリア空軍のシンボル、金の鷲
 

1918年に戦争は終わり、翌1919年にジョルジョ・パローディの父エマヌエーレ・ヴィットーリオ・パローディから出資の確約を得て、その年のうちにカルロはフェレーと共にマンデッロで、G.P.(GUZZIとPARODIの頭文字)と呼ばれる彼の最初のプロトタイプを組み上げます。そしてその性能を認めたエマヌエーレ・ヴィットーリオ・パローディから増資が約束されます。
モトグッチ株式会社はそれを元に1921年3月15日にマンデッロ・デル・ラーリオの300平米の土地に産声をあげるのですが、それに先立つ1920年12月15日のモトチクリズモ誌23号で既に、「来春にも魅力的なメーカーによって新たなマシーンがイタリアにおいて発表される」と予告がされていたのでした。 ここまでが上下2巻全体の1/20の、モトグッチ社誕生までの物語となります。カルロが2人の戦友と出会うくだりはあっさりと書きましたが、すこしばかり訳がありまして、このあとさらに詳しく書いてみたいと思います。

 
プロトタイプ G.P.
<プロトタイプ G.P. モトグッチ・ミュージアムにて>
 

ところで私、グッチグッチと書いてますけれども、皆さんの車検証でご存じでしょうが登録されたメーカー名称がそれまでの「モトグッティ」から「モト・グッツィ」に改まりました。元の発音に忠実に、ということなのでしょう。でもまあ日本では「モトグッチ」がすっかり定着していますのでこれで通させていただいています。私が出会ったイタリア人でグッチのことをグジーと言う人もいましたし、私なんてマーズモートーですよ。きっとマスモトと言いづらいのだろうから気にしません。それに某モトグッチのオフィシャルなウェブサイト上でもモトグッチのかつての高名なエンジニア、ジュリオ・チェーザレ・カルカーノ氏のことをジュリオ・セザール・カルカーノなんて書いてもいるので、きっと発音問題というのはそんなに厳格なお話でもないのでしょう。
  
それよりもこの某オフィシャルなウェブサイトには、名前という面では別の見過ごせない部分があるのです。それはモトグッチの歴史を紹介してるページの「ビチリンドリカ」の項ですが、その表題を間違えて「ビチンドリカ」と書かれているのです(2022年1月31日現在)。「ビチリンドリカ」とは単なるニックネームではなく、そもそも「2気筒」という意味で、このレーサーがすでに活躍していた250ccレーサーのシリンダーを2つ使って120度Vツイン500ccレーサーに仕上げた名車だという成り立ちをも指しているのです。「ビチンドリカ」では意味が通じません。
またこのビチリンドリカの素材となった、1926年に投入され、これまた数々の勝利を収めた名機250ccレーサーの写真も、同じく某オフィシャルなウェブサイトでは1939年から販売が始まる市販車アイローネ(これも250ccではありますけれども!)の写真が使われています。250にはのちのモデル、1938年にスーパーチャージャーを搭載したコンプレッソーレもあるし、1939年にアルミシリンダーとアルミシリンダーヘッドを採用したアルバトロスもあるので写真素材には事欠かないはずなので、ちょい物足りないですね・・・・・。
 
ところで名称こぼれ話なんですが、さらに前は車検証に「モトグッチ」と記載されていました。それが1980年台後半ころに陸運局のほうから「モトグツティ」に変更したいと提案がありました。当時の日本総代理店だった諸井敬商事は「せっかく呼びやすいモトグッチが定着してるのに」と抗議しましたが結局変更となってしまったという経緯があります。


 
250コンプレッソーレ
<250コンプレッソーレ モトグッチ・ミュージアムにて>
 

さて、第一次世界大戦当初のカルロに話を戻しましょう。
彼は1914年、25歳のときに機関兵の空軍准尉として召集されました。その任地はヴェネツィアの北東に位置する聖アンドーレア島(サンタンドーレア島)にあった飛行艇小隊の整備工場だったのです。そこで2人のパイロットに出会います。1人はジェノバのかなり裕福な市民であったジョルジョ・パローディ。もう1人はブレッシア生まれで自転車の選手でもあり、戦前の優れたモーターサイクルレーサーであったジョヴァンニ・ラヴェッリでした。3人は意気投合し、カルロの新しいモーターサイクル造りのアイデアに共感し、パローディの実家の財力と、ジョヴァンニ・ラヴェッリのかつてスペインで“イタリアの悪魔”と呼ばれたライダーとしての実力と名声をも合わせればそれはきっと成功するだろうと語り合ったのでした。
 
・・・・・むむむ、
ちょっとなにか気になりませんか?
カルロたちが出会ったのはアドリア海北端に位置する小島、サンタンドーレア島の基地。彼らがいたのは飛行艇小隊なのです。アドリア海の飛行艇乗り、それってまるで「紅の豚」の世界じゃないですか!?

ちなみに、「紅の豚」の作者宮崎駿さんはモトグッチのVツインエンジンを搭載した3輪車「トライキング」を所有していた(現在のことは存じません)ほどのマニアです。たしかカーグラ誌上だったと思いますがトライキングのことを漫画にしていて、そのシンプルさやダイレクト感を評して、素ウドンならぬ素グルマと描いていたのを覚えています。
モト(モーターサイクル)のグッチにどれだけ興味をお持ちだったのかは伝わっていませんが、じかにモトグッチエンジンに接していた宮崎駿さんが、もしカルロ・グッチがアドリアの飛行艇小隊で運命的な2人の友と出会ったことを知っていたなら、ひょっとしてそれをモチーフに「紅の豚」の舞台ができあがったのではと想像したら楽しくないですか?時代だってほぼ合ってるのです!

ちょうど少し前に「紅の豚」がテレビで放映されました。その後いらしたお客さんと雑談をしていて、その方はわりとそういったこと(戦史など)にお詳しいので「ピッコロ社でエンジンかけるじゃないですか。でもラジエターとか見当たらないんですけど空冷なんですかね〜フィンも無いのに」と話すと「いや水冷(液冷)でしょう!!」と一刀両断。ひょっとして航空機の速度だと空気の流量が違うから空冷V12なんてシロモノがまかり通るのかと想像しましたが、まあ普通に考えたら中間のシリンダーはすぐに焼き付きますよね。
 
そんなところから、今さらですけど「紅の豚」の「エンジンちゃん」について少しは調べてみようと思い立ったのです。今ってのはいいものでネット上には情報があふれていました。調べていたら長年ふわっと思ってた2つの疑問、スピード勝負なのになぜ空気抵抗が大きそうなフロートを備えた飛行艇なんだろう?と、ヘッドカバーにGHIBRIと浮き文字があるフォルゴーレというエンジンの正体は?もわかりました。私は航空機エンジンの知識は皆無でしたので、ここから先はネット情報によるもの多です。出典をリンクしませんが興味を持たれた方はググってみてくださいませ。機体やエンジンの写真等見ることができます。ちなみに星型ではない空冷航空機エンジンもありました。先のお客さんが調べてくださったのですが、Napier Dagger(読みはわかりません)というH型24気筒です。写真を見ると大きなダクトを上下2つ備えていて、これは給気と冷却を兼ねているのでしょうか。そして各シリンダー間には冷却のための通気口など設けられているのかもしれません。
 
それでは前提として「紅の豚」の各設定は原作版と映画版とで異なるので、ここでは映画版についてのみ話を進めたいと思います。まずポルコ・ロッソの機体はサヴォイアS.21試作戦闘飛行艇ということになっています。実はこれは名前だけの設定で、その姿は実在のサヴォイアS.21とも異なり(複葉機ですので)、宮崎駿さんが少年期に見たというマッキM.33がフォルムのモデルになったとされているそうです。このM.33はたしかに似ています。そして実際に1925年のシュナイダートロフィーでカーチスに敗れているのです。
ポルコ・ロッソ号が最初に積んでいたのはイゾッタ・フラスキーニ社のアッソ液冷V12スーパーチャージドエンジン。そしてエンジン故障でカーチスとの最初の空中戦に負けたあとにピッコロ社のオヤジが持ち出したフォルゴーレという架空のエンジンのモデルになっているのはフィアットのAS.2、水冷V12気筒、SOHC4バルブです。シュナイダー・トロフィーに向けてチューンされたエンジンでアルミシリンダーヘッドやマグネシウム合金のピストンが投入されていたようです。
ボアストロークは140X170mm。ボアが140mm!一瞬、そんなにでかくても火炎伝播が間に合わず必ずしも有利とは言えないのでは?と思ったバイク屋のオヤジでしたが、最高馬力800hpを発生するのは2500rpmでした。その程度の回転ならちゃんと燃えきるのでしょう。
ではフォルゴーレってナニ? Folgoreというのはイタリア語で稲妻という意味なのですが、宮崎駿さんが少年期に見たというM.33と同じマッキ社に、フォルゴーレと名付けられたMC.202という戦闘機があるのです。宮崎駿さんの遊び心なのでしょう。ちなみにマッキ社は第二次世界大戦後はモーターサイクル造りに転じて(アエルマッキ)、実はモトグッチにも縁が深いリノ・トンティも開発に参じていたのですが、もうそんなことを掘り下げていてはキリが無いので後日に譲ってやめときます。


 
アドリアではないけどレッコ湖の風景
<本文とは関係なくアドリア海ではないレッコ湖の風景>
 

さて、劇中のフォルゴーレのヘッドカバーにはGHIBRI(イタリア語読みするとギブリ)と浮き文字が見えます。浮き文字で思い出す話を少し書きます。モトグッチのかつての日本総代理店であった諸井敬商事の創業社長であった故諸井敬氏は戦時中は東京高等工芸学校の学生でしたが、学徒動員で中島飛行機荻窪製作所の航空発動機試作工場に送りこまれました。そこの試作研究部で、のちにH・R・Cの社長にもなる関口久一技師の指導の下、B29に立ち向かうべく3500馬力を目指して空冷複列星型18気筒のハ107,ハ117の2種のエンジンの試作を秘かにしていました。
ある日、恐らく敗戦濃厚という局面だったのでしょう、東京にも空襲が始まっていて、田無のほうにほぼ無傷のB29が墜ちたとのことでエンジンを回収に行ったのだそうです。そしてそこで見たのはエンジンに浮き文字で品番が記されているという、当時日本ではまだ打刻していたのと比べるとずいぶんと余裕な工業力であったそうです。エンジンを開けてみると遠くサイパンから飛んできたとは思えないほどきれいなシリンダーウォール。自分たちの試作エンジンは昼夜回し続けて耐久テストをすると見るも無残な段付き摩耗と、こんなに差があったら制空権が米軍の手中にあったのも仕方ないと後年語っていたそうです。(一部諸井敬氏の「内燃機関にとりつかれて」から引用)
 
諸井敬氏は航空発動機を研究するためと海軍兵学校に入るために英語の猛勉強をしたので、戦後は英語力を武器に進駐軍第8軍司令官ウォーカー中将のもとで通訳を務め、そこからの縁で貿易界に足を踏み入れるのですが、いろいろなエピソードはまた別の機会(があれば)にしてフォルゴーレ(FIAT、AS.2)に戻ります。
この時代のV12というエンジンについて、気になったのはクランクシャフトです。まさか組み立て式クランクだったのか、当時V12のそこそこ長いクランクシャフトを鍛造で作れたのか、一番想像しやすいのは削り出しかと思うのですが。そこまでの情報は私は見つけることができませんでした。ただクランクピンについては、最先端を行く航空機エンジンのことなのできっとメタルを使っていたことでしょうね。
近い時代のモトグッチのエンジンで紀文食品様所有の1930年製Sport14は一体型クランクにメタルを使っていました。鍛造かどうだったかは今ちょっとわかりません。もう1台、諸井敬商事にティポ・スポルトと呼ばれたモデルが置いてありました。もしSport14以前のSportであれば1923〜1928年の間に製造されたもので、この車体はメタルではなくニードルベアリングが使われていました。ベアリングならクランクは2ストロークエンジンと同じく組み立て式かと思いきや、クランクは一体でコンロッドビッグエンドをばらしてニードルを入れるという方式でした。あらためて2台並べていろいろ検証してみたいものですが、このティポスポルトは20数年ほど前までリパラーレでお預かりしていましたが、諸井敬氏のご遺族のお一人が引き取りにいらして、その後の消息がわからなくなってしまいました。
 
さて劇中のフォルゴーレはピッコロ社の倉庫で試運転をします。モデルとなったFIAT、AS.2は先に書きましたように水冷です。あの場面で風になびくパイプのようなものが見えますが、あの中を冷却水や燃料が通っているのでしょうか。あんなにヒラヒラしててプレッシャーは維持できるのかな〜、冷却水の循環が悪くて焼き付かないか心配です(笑)そして後方にラジエターが置いてあってプロペラの風を当てているのでしょうか。それよりも目の前を運河が流れているのですからその水をエンジンに送り込んで温まった水は垂れ流しにするほうが簡単かもしれません。でもそれはどちらかというと冷え過ぎか。よくヤマハRZのラジエターに貼られたガムテープをちらりと思い出しました・・・・・。


 
市庁舎広場にて
<マンデッロ 市庁舎前の広場 カルロの像が置かれている>
 

ピッコロ社の倉庫を飛び出したポルコ機は、ミラノの運河から飛び立ちます。そこで思い出すのは私が感じていた疑問、なぜ飛行艇がスピードレースを?ですが、ちゃんと理由がありました。紅の豚を見ていると、この映画の世界では航空機は全て飛行艇という設定なのでは?とも思わされる雰囲気もありますが、そもそも現実のシュナイダー・トロフィー・レースにしたって飛行艇の速度を争うレースだったのです。
航空機で速度をあげてゆくのに障壁のひとつが翼だったそうです。ざっくり書きますが両翼の幅が狭いほうが有利で、ただしやみくもに狭くすると離陸(あるいは離水)時の揚力が足りなくなってしまいます。そうなるとスピードレースに臨む航空機には長い長い滑走路が必要となり、限りある飛行場の滑走路を使う陸上機よりも、海などでどこまでも助走ができる飛行艇のほうが翼を小さくできる分有利だったのです。ほかに私が疑問に思っていたフロートの空気抵抗は陸上機の車輪よりも小さかったので、やはり飛行艇が有利だったそうです。後年フラップ(翼に取り付ける可動部)が開発されて翼を小さくできるようになり、また離陸後車輪を格納できるようになって空気抵抗を減らせた陸上機が逆転して有利になっていったのです。
 
ミラノの運河からようやく飛び立ったポルコ。彼の脱出の手助けをしたのはかつての戦友フェラーリンでしたね。このフェラーリンにもちょっとした因縁話があるのです。と、その前に!手助けで思い出しましたが、この物語に出てくるマンマユート団、これって読みではマンマユートと言ってますがイタリア語にするとmamma aiuto!となり、つまり「ママ助けて〜!」という意味になります。全然怖くない(笑)
で、フェラーリンです。この人には実在のモデルがいるのではといわれているのです。イタリアでは戦闘機の性能がいまひとつだったそうで、第一次世界大戦中にアンサルド社において開発が始まりました。1917年に試作機が完成し、社名に設計者2人の名も合わせてS.V.A.(Savoia Verduzio Ansaldo)1型と命名されました。これはその後改良を重ねられるのですが、1920年になって極東への空路開拓を目的に11機の航空機がローマから飛び立ちました。そのうちで唯一、同一機で全行程108日、飛行日数27日、飛行時間112時間でローマ〜東京18000kmを飛んだのが複葉複座の陸上機、S.V.A.9でパイロットがアルトゥーロ・フェラーリン中尉だったのです。宮崎駿さん、この日本にも関わるエピソードを知らずして数多あるイタリア人の名前の中からフェラーリンを選んだとは思えないです。



2006年浜松基地へツーリング
<2006年、浜松基地へのクラブツーリング>
 

世界で初めての偉業を成功したこの機体は靖国神社遊就館にて展示されていたところが昭和20年の空襲で焼失してしまったので、戦後になってイタリアからレプリカが寄贈されたのだそうです。そのレプリカは現在航空自衛隊浜松広報館にあるそうで、「えっ何年か前にモトグッチオーナーズクラブで浜松基地に見学ツーリングに行ったよ!」と写真をさがしたのですが、残念ながらS.V.A.9レプリカは写っていませんでした。

かつてはスピードレコードを持っていた飛行艇という消えて行ったエリートに目を向け、劇中では天に召されてゆく飛行艇乗りたちを描いた宮崎駿さんにカルロ・グッチの気持ちを重ねずにいられません。
1918年11月11日に第一次世界大戦が終わり、カルロ・グッチはマンデッロに帰りプロトタイプの製作を始めます。ジョヴァンニ・ラヴェッリは空軍にとどまりその完成を待っていましたが、1919年8月11日、飛行中のエンジントラブルに見舞われ地表に激突、身体じゅうの負傷によって亡くなります。この知らせはカルロを心底打ちのめしたといいます。もし1919年のうちには完成したという彼のプロトタイプが8月にも仕上がっていたら、ジョヴァンニはすぐにでもマンデッロに赴いていて事故に遭うことはなかったでしょう。もしそうなっていたらモトグッチは、イタリアの悪魔と呼ばれたジョヴァンニによってこそサーキットの栄光を掴んで世界の大メーカーの道に踏み出したに違いないからです。

お読みいただきありがとうございました。この「Mandello e Moto Guzzi」は一応vol1と書きましたが、もし例の本を読み進めていくうちになにか面白いネタがあったらまたご紹介させていただきます。

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